読書備忘録


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2008年03月22日(Sat)▲ページの先頭へ
『ゲーデルの世界』

ゲーデルの伝記的な部分は他の本でも読んだので飛ばして、比較的論理的な部分についてしっかり説明しているところを読みました。
予備知識は結構あったのでそれが整理できてよかったです。ゲーデルの仕事よりもむしろ一番画期的だったのはチューリングのした仕事だったんではないかなーとも思うんですが、私のこの煮えきらなさはチャーチ-チューリングの定理に原因がありそうで、それが定理である(=証明されていない)からというレベルではなくて、本当に我々が普通に計算するときのような難しいアルゴリズムがUTM上で実行可能なのかということですね。
デジタルは0か1かの単純な世界。しかしながら我々の理性はその世界にすら追いつけない。

『ゲーデルの世界―その生涯と論理』John L. Casti, Werner Depauli, 増田珠子(訳) 青土社,2002

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『カンガルー・ノート』

 安部公房、最後の長編。(遺作除く)
 読んでいると、夢を見ている感覚。主観的に構築され展開し転換してゆく世界、世界、世界。
 カンガルー、かいわれ大根、垂れ目の少女、そして死。数々の場面に通底する要素。これらがこの小説のテーマだ!というわけにはいかない。かいわれ大根がテーマの物語なんか誰が読むだろう。かいわれ大根はかいわれ大根でしかない。かいわれ大根がかいわれ大根のままで世界を展開させてゆく。そこに意味を見出すのはわれわれ読者の仕事。
 最後の場面で箱男のモチーフからの援用があるのも安部公房らしい。彼の小説世界は一つの作品で完結しない。赤塚不二夫のようなものか。読めば読むほど汲み出せる無限の情報。これだからやめられない。

『カンガルー・ノート』安部公房, 1991, 新潮文庫

『数のコスモロジー』

著者が方々に書いた文章をまるっと一冊にまとめたものなので、論理にまつわるエッセー的なものから、記号式がごっそり載った論文的なものまで、色々なレベルの読者が想定されていて、例えば僕の場合難しいところは分からなかったのだが、大体同じようなテーマについて書いているので、あまり気にすることはないだろう。

数学教育に関する部分は、やはりその教育を受けてきた者としては見モノ。確かに「長方形」っちゅう訳語はおかしいわ。

『数のコスモロジー』齋藤正彦, 2007, ちくま学芸文庫

2007年08月27日(Mon)▲ページの先頭へ
『ダダ・シュルレアリスムの時代』

 ダダイスムの創始者であるトリスタン・ツァラという人物は、日本ではあまり知られておらず、かくいう私も本書を読むまでは全く知らなかったのだが、本書ではこのツァラという詩人の成した仕事を軸として、20世紀前半のヨーロッパのアヴァンギャルド芸術の精神状態を精密に分析してゆく。
 「ぼくは宣言を書くが、何も望んではいない。それでも、ぼくは何かをいう。ぼくは原則として、宣言には反対だ。原則というやつにも反対なように。(ダダ宣言1918)」という、「宣言」を否定する「宣言」に見られるように、ダダはかなり難解なイスムであるわけだが、その裏にあるツァラの個人的な精神状態は21世紀初頭に立つ私たちにも共有されるものではないかと思う。物語への不信、メッセージの拒否。或いはパンク・ロックの精神に近いものがあるのかも知れない。

『ダダ・シュルレアリスムの時代』塚原史, 2003, ちくま学芸文庫


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『モーセと一神教』

 日記でも書いていたが、やはりフロイトという男、天才であると思う。
コナン・ドイルと同時代の知的パラダイムの影響下にあるということが講義でも述べられたのだが、本当に推理小説を読んでいるかのようにスリリングである。聖書などのわずかな手掛かりから、モーセという男の正体と、現代にも大きな影響を与えている一神教の概念の起源を探る。私は鳥肌が立った。

 偉そうなことを言っているが、レポートの〆切の都合上、TU部しか読んでおらず、V部はほったらかしてしまった。逆に、それでも十分に楽しめるので、お暇なら図書館でひとつ探してみるのは如何だろうか。

『新訳 モーセと一神教』S.フロイト著, 渡辺哲夫・訳, 1998, ニホンエディタースクール出版部, 東京

2007年05月17日(Thu)▲ページの先頭へ
『へらへらぼっちゃん』

 前回の読書備忘録が四月の朔日だというから、一体どんだけ本読んでないだ、という話であるが、まぁその分各講義の教科書など読んでいるわけだから、こういうライトなもので許してくれい、といったところである。

 さて、町田康。分かる人にはバレバレであるが、私の文体は時として全く彼の模倣となる。それだけ中毒性の強い独特の文体の持ち主であるが、その"独特味"の説明として彼がパンク歌手であることを挙げる解説・評論などが多い。私としても特に異論はない。
 パンク。私は「広く浅く」を標榜して音楽を聴いているけれども、結局パンクロック系に傾くことが多い。パンクの何がいいって、その無鉄砲さ、後先考えなさ。瞬間瞬間が震えている。彼の文体もそういう瞬間瞬間の輝きがあって、読んでいるというよりは言葉が次々と入り込んで頭の中でスパークしてゆく感じ。まぁ読んでもらやあ一発で伝わるのだが。
 読んでもらやあ、ということで、初めて町田康を読もうという人にはこれが最適の書である、と思う。細々としたエッセイの寄せ集めであり、とりあえず彼の文体の楽しさを感じるためだけの本と言ってもいいように思える。解説が大槻ケンヂというのも如何にも入門という感じ?(笑)
 まぁそれだけに私としては物足りない内容であったのだが、かといってじゃぁ彼の小説に「へらへらぼっちゃん」以上の何があるのかと問われると、何もないような気はする。けなしているのではない。ここに現れている言語のうねりこそ町田文学の全てといってしまうのもそれはそれで当たっているのではないかと思うのだ。

『へらへらぼっちゃん』町田康・著 講談社文庫

2007年04月01日(Sun)▲ページの先頭へ
『クワタを聴け!』

『ジョン・レノンを聴け!』『ディランを聴け!』などで知られる著者が、少し視点を変えてサザンオールスターズのヴォーカル・桑田佳祐氏の手に掛かった全曲を片っ端から批評していくというなかなか読み応えのある本。「クワタ」と片仮名なのが玄人風味(笑)

「クワタなんか全部洋楽のパクリじゃないか!」という批判をアウフヘーベンして、「そのパクリ方=選び方と構成力、センスにこそ彼の<天才>たる所以があるのだ」と切り返すのが、この書の主な目的。

僕のようにサザンを入り口にして音楽にはまり込んでいった人間にとっては、パクリも何も関係なく、サザンがスタンダードでありオリジナルになってしまっているのだが、こういうまったく別の角度から作品を吟味できるのは嬉しい。

ソロ、クワタバンド、サザンが全部混ざって年代順に並んでいるので、歴史的変遷を辿れるのも良い。(どうせならシングルとアルバムも一緒にしたら分かりやすかったのに)

『クワタを聴け!』中山康樹・著 集英社新書0380F

2007年03月30日(Fri)▲ページの先頭へ
『豊かさとは何か』

1989年発行の名著。と、ある人に言われて読み始めましたが、牧場物語に邪魔されてかなり時間がかかりました(笑)

私も、社会から意図的に離れて、豊かな気分になっているところはあるものの、社会を動かす立場(投票するだけかも知らんが)にあっては、社会全体的に豊かであるとはどういうことかを考えねばならんので、勉強になる本でした。
流石に話の古いところがあるものの(ドイツ統一したしね)、現在にまで引きずっている問題も描かれています。GNP至上の価値観はやはり我々の頭にこびりついているようです。

『豊かさとは何か』暉峻淑子・著 岩波新書85

2007年03月09日(Fri)▲ページの先頭へ
『不幸論』

幸福な人生などありえない。という本。

それには二つ根拠があって、
・幸福だと感じているそのときにも、不幸な人はいる。
・人は死ぬ。
と、要はそういうこと。



んん〜それ以上のことは書きづらい。書けば書くほど私自身が追い込まれる気がする。
徹底的な自己嫌悪を持ちながら、これだけの文章を捻出できる中島氏はやはり強いのだと思います。


PHP新書だったら「<対話>のない社会」の方が面白かったかな。

『不幸論』中島義道・著 PHP新書223

2007年03月08日(Thu)▲ページの先頭へ
『友情を疑う―親しさという牢獄』

別に友人関係で悩んでいたとかではなく。面白そうだったので。

前半は、かなりゆっくりと、何人かの思想家たち(キケロ、モンテーニュ、ルソー、カントなど)の友情論を、えっちらおっちら追っていたかと思ったら、最後のほういきなりスパートかけて現代社会に警鐘を鳴らしだしたので焦った。

主張を要約すると、ルソーが理想としたような、常に苦楽を共にするような友人、すなわち「友愛」という概念はフランス革命において、それが強制されるもの(自発の強制!)となって社会を混乱に陥れた。現代日本においても、例えば行政がボランティア(それは「友愛」の精神に基づいている)に頼らなければならないような政治機構は不健全である、と。

今の教育基本法に盛り込まれた「公共の精神」という文言に、幾分危険そうな香りがするのは、ジャコバン政権が盛んにこの言葉を謳ってギロチンだの何だのやってたからなんですね〜。

前半は歴史的な記述になってて、そういう意味でも勉強になりました。ほぉ〜、モンテーニュのおばあさんが、レコンキスタのあとにイベリア半島から追い出されたユダヤ人なのね〜。みたいな。

『友情を疑う―親しさという牢獄』清水真木・中公新書1813

2007年03月06日(Tue)▲ページの先頭へ
『論より詭弁―反論理的思考のすすめ』

光文社新書はだいたい読んだあとに、不足感(タイトルハッタリやんけ!感)が残るんですが、これも例に違わずで、まぁ語り口が軽妙なので楽しく読めてよかったです。
という感想もだいたい光文社新書一般に言えるんですけどね。

内容を要約すると、
我々が普段「詭弁」として切り捨てている修辞上のトリック(主に論点のすり替え)も、場合によっては正当と認められる。完全に論理的で公平な議論というものは社会においては成り立ち得ないのであるから、これら「詭弁」を切り捨てるべきでない。
という感じです。

もっと要約すれば、「世の中論理だけで回ってるわけじゃないよ」というところでしょうか。僕の読み方では。
ゲーム理論を学びたい気分です。



『論より詭弁―反論理的思考のすすめ』香西秀信・著 光文社新書290